最強格闘技の宿命
例えば、「最強の格闘技」が決定したとします。
どんな方法で決定したのかは分かりませんが、とにかくもう絶対に最強な格闘技と判明したのです。
決定した瞬間に、誰もがその格闘技を習得しようとします。
少なくとも、「より強くありたい」と思って格闘技、武術、武道を鍛錬している人は、
その格闘技に乗り換えます。
他のスポーツ格闘技や、他の武道や、他の武術を、
既にある程度身に着けていて、しがらみ?もできて、
「今から鞍替えすのはな〜」という人でも、
「最強」を目指して修練していたなら、
その「決定された最強の格闘技(決定版格闘技?)」に興味を持ちますし、
おのおのその格闘技界の、その武術界の、その武道界の、それなりの立場にある人なら、
決定版格闘技の技を取り入れようとするかもしれません。
もしくは、決定版格闘技に対抗する技を研究開発しようとします。
しばらくすると、格闘技にたずさわる誰もが、決定版格闘技のエッセンスを知り、
誰もがその技を習得し、対応技を熟知します。
とすると、最終的には、「最強」は格闘技種の問題ではなく、
決定版格闘技の技を使う個人の問題になります。
最強格闘技が、「格闘技術」として「最強」であるには、
知られてしまってはいけないのです。
知られた瞬間から、「最強格闘技術」は、最強でない方向に向かって進み始めます。
1993年に上記のような事が起こりました。
グレイシー柔術です。
「何でもあり」で「1対1」というたったひとつの状況の中ではありますが、
それでも、ある種の最強の条件ではあります。
また、少なくとも、その大会に集った者たちの中では、「最強」でした。
しかし、たった数年で、技は研究され、多くの他の格闘技種の選手がそのエッセンスを吸収しました。
もうすでに最強エッセンスは、本来の格闘技だけのモノではなくなりました。
「最強格闘技」が格闘技種として「最強」であるためには、「最強」であることを知られてしまってはいけないのだと思います。
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・・・・・1秒で10発・・・・・貫手板割り・・・・・片手腕立て伏せ・・・・・1秒で10.5発・・・・・